変化のスピード

今回のグアテマラ滞在で、素材調達には本当に苦労させられた。半年前、棚にズラリと並んでいた生地が明らかに繊細さを欠いたデザインのものに取って代わり、容易に手に入らないのだ。狭い地域では流行の変化は瞬く間に広がる。前回使用した生地は村から一斉に姿を消し、近隣を探し回りようやく、今季の最低限必要な量を確保することが出来た。

 

グアテマラでの手仕事によるモノ作りの環境は、ここ2、3年で著しく悪化した。残念なことに「生産を中止した」「原料が集まらない」「作り手がいない」は交渉前の挨拶にさえなってきている。手間がかかり、技術を要し、短期的には生産性の低いと思われている手仕事を人々はやりたがらないのだ。SABASABAは自然に対して出来る限り負荷をかけない原料で、手仕事によるモノ作りを目指しているため、今後、年月を重ねるごとに生産が困難になって行くことだろう。

 

しかし、ここで本当に憂慮すべきは、モノ作りの環境の変化ではなく、その変化のスピード。そしてそれに伴う人々の心の変化である。グアテマラに限ったことではなく、近年のの爆発的な輸送や通信技術の発展により、人々は変化のスピードに対応しきれず、それに伴う心の変化を認識できないでいる。それを証拠に、あらゆる分野の技術が進歩しても、全ての源である地球環境は一向に良くならず、貧富の差は更に拡大し、人々も日常生活での心の豊かさを失って久しい。

 

そんな中、SABASABAはここに一石を投じてみようと思う。グアテマラでの手仕事によるモノ作りを出発点とし、小さな提案をして行こう、と。それが例え世に大きな波紋を呼ばなくても、限定的な地域のみへの影響だったとしても、変化のスピードを少しでも緩め、次世代に考える猶予と手仕事の技術を、そして、地球と共に生きる日常生活を残すことができるかもしれない。 fall/winter 2014-2015カタログより

自然と人を結ぶ手仕事

10回を数えるグアテマラ手仕事の旅。おかげ様で、今回もたくさんの収穫がありました。既存のグループや友人との関係を深め、もちろん、新しいモノ、コト、ヒトとの出逢いも。そんな中、特に印象に残ったのは、人々の「手」。人々がモノを作る「手」に惹かれ、美しく、愛おしく感じました。

 

SABASABAは「手仕事」が事業のコンセプトの中核にあります。その理由は、「手仕事が人のモノ・コトを作る」と、否、「手仕事でしか、人のモノ・コトは作れない」と考えるからです。人は「手仕事」により、自然に触れ、自然を感じ、そして、自然と調和することで自然と共存してきました。その関係性が崩れたら、人は物理的にも精神的にも存続は出来ないでしょう。

 

日本を含め地球上の多くの地域で「手仕事」が失われつつあります。同時に自然と結び付くきっかけを失い、自然を感じ、自然に感謝する「こころ」までも失いつつあします。そろそろ、戻る時期ではないのでしょうか?難しく考えず、日常生活の中から、出来ることから、少しずつ。「戻るのも前進」と悟る叡知。その叡知と共に一歩踏み出す勇気。それとも、既にそれすら、私達は持ち合わせてはいないのでしょうか?

 

グアテマラの日常生活の中には、辛うじて、自然と人を結ぶ「手仕事」が息づいています。今にも切れそうな一本の糸として存在しています。そして、この一本の糸は、私達の日常生活と繋がっています。SABASABAが提供するグアテマラの手仕事製品としてだけでなく、自然との共存を見つめ直す機会を「手仕事」を通じて与えてくれます。SABASABAはこれからも、この一本の糸を丁寧に紡ぎ続けていこうと思います。                           spring/summer 2015 カタログより

農作業は、楽しい

先代から田んぼを引き継いで、今年で5年目。文字通り右も左も分からず、田んぼを荒らさない程度に維持出来ればと始めた稲作。どうせやるなら、と、無農薬、無化学肥料、天日干しと徐々に移行し、今に至る。一度荒れた農地を元に戻し、更に、出来る限り自然に寄り添うスタイルの農業に切り替えるには、大量に流した汗なくして語ることは出来ない。

 

それでも、農作業は、楽しい。いや、それだから農作業は楽しいのかもしれない。自ら土地を耕し、種を植え、水をやり、草を取り、農作物を収穫し、食卓を彩る。これだけ人間社会が複雑になり、自分の行いが直接自分に跳ね返って来にくい時代になると、農作業という自然と日々の暮らしを直に結びつけ、自らの手で生活の糧を得るというシンプルな営みが、より一層、貴く思えてくる。

 

目先の経済を優先するなら、安全基準を無視し地球環境を省みないやり方で、労なく農作物を作る方が生産性は高い。しかし、この地球の未来を考えた時、人と自然との結び付き切り離すことは、人の心と自然環境から豊かさを奪い、取り返しのつかない窮地に追い込まれることは容易に想像出来る。目の前が崖と分かれば、当然、そのまま突き進むのではなく、後戻りしたり迂回したりすることも必要だ。

 

春に緑肥として漉き込んだれんげ草が効いたのか、今年は目に見えて穂先に重量感がある。おかげ様で、黄金色の稲穂を穏やかな気持ちで眺めている。この幸福感と充実感。そうだ、これからは新米だけでなく、農作業の楽しさも一緒に届けることにしよう。どうやって?SABASABAの新たなステージが、静かに幕を開ける。                        fall/winter 2015-2016 カタログより

日本最後の清流

16年振りに、高知の四万十川を訪れた。当時は、折り畳みカヌーを背負い、静岡から四万十川までヒッチハイク。川に着いてからはカヌーを組み立て、通常2~3日で漕ぎ下れる川を、寄り道を重ね1か月かけてのんびり下った。今回は、長年乗り継いだヴィッツに家族5人とアウトドア道具一式を詰め込んで2泊3日のキャンプ。河原で子供と川遊びをして過ごした。

四万十川の本流は水量も多く、子供が川遊びをするには少しスケールが大きかったので、支流の一つ、黒尊川に足を運んだ。到着早々サルの群れに出迎えられ、浅瀬にはアユの乱舞。透明度の高い川底には、希少な魚が素早く岩間に身を隠す。桃源郷のような川辺に降り立ち子供達も大はしゃぎ。時は流れ、自分自身の環境は大きく変化したが、四万十川とそれを取り巻く里山の原風景はまだそこにあり、遠方からの旅行者を十分に楽しませてくれた。

 

四万十川は今なお「日本最後の清流」と呼ばれている。近年の生活環境の変化で水質は特筆するほど良い訳ではないようだが、水域の動植物は豊かで、大きなダムは無く、川に寄り添う伝統的な生活文化はまだ息づいている。しかし、その自然環境は人的努力によって維持されているというよりは、過疎化によって人の手が加えられなかったことが一つの要因だ。故に、「日本最後の清流」の称号も手放しでは喜べない。四万十川は里山の原風景を後世に残しつつ、日本における自然環境の危機的状況も伝えている。

 

今回の旅で四万十川は本流だけでなく、支流でも心ときめく川遊びが出来たことは大きな収穫だった。「本流でのカヌーもいいが、支流の川遊びもいいな」と源流まですっかり伸び、アクセスが容易になったバイパスを走りながら再訪を誓った。と同時に「日本最後の清流」に久し振りに触れ「自然と共存への根本的な解は未だ見えず」を再認識。大きな宿題を手土産として持ち帰ることとなった。

                               fall/winter 2015-2016 カタログより